【 国指定重要文化財 】
・昭和25年8月29日指定(室町時代/建造物)
表門は、応永9年(1402)建立の唐様式四脚門形式、切妻造り茅葺き型銅板葺きの建造物である。中央の棟通し柱は径30㎝で、前後の柱はやや細く上下に棕をつけ、柱下には基盤を置いている。柱上は唐様三斗組で、大斗の下端に皿斗をつけ、肘木は笹繰付である。軒廻りは二重繁垂木で丸桁には手挾が組み込まれており破風板に繰形をつけ、懸魚は鰭付きの無形である。構造意匠は大胆、奇抜、独創的であり全体的には彫刻は流麗で特に海老虹梁はみごとで、室町時代の特色をよく表している。
【 県指定重要文化財 】
・昭和33年4月25日指定
天文10年(1541)に円通寺は火災で伽藍の大部分が焼失した。その再興に尽力したのが良迦上人で学寮や一切経塔を建設したのである。一切経塔は、重層方形造り柿葺き型銅板葺きの建造物。中世より江戸時代まで文化の中心を成した大沢文庫の面影を伝える建物である。上下層とも三間四面で下層正面および両側に桟唐戸を設け左右に花頭窓を開けている。上層は正面一間に板唐戸を設け、左右に丸窓を配しているので、正面の柱間装置が変化に富んでいる。上層は二重扇垂木で露盤上に宝珠を設けている。
【 県指定重要文化財 】
・昭和35年10月11日指定 鎌倉時代/彫刻
この仏像は、善光寺式阿弥陀三尊で鎌倉時代末期の銅製の鋳造物として特色がある。阿弥陀如来立像は43㎝、観世音菩薩立像29.1㎝、勢至菩薩立像29.1㎝であり、円通寺の開祖良栄上人がこの三尊像を笈に入れて各地をまわり、円通寺創建時に持参したといわれ、代々の住持の護持仏とされている。背面地付部近くに「大沢山」の陰刻がある。
【 県指定重要文化財 】
・昭和52年2月15日指定 鎌倉時代/彫刻
この仏像は、鎌倉時代に作られた像高50㎝、膝開25㎝、台座15㎝の寄木造、彫眼、金箔の仏像である。二重円相の光背をバックに上品上生の印を結んで台座上に結跏趺坐している。
【 県指定重要文化財 】
・昭和52年2月15日指定、年代不詳/書籍
本書は浄土宗鎮西義名越派大沢流の教義の真髄を説いた最も重要な文書である。
良栄をはじめ歴代の住持の口述筆記した秘伝書を納めたこの月形凾は、住持替の時だけ7日潔斎、3日精進の後に引き継がれるべきものであり、たとえ弟子といえどもその凾内を見ることは許されなかった。
【 県指定重要文化財 】
・昭和52年2月15日指定、江戸時代/書籍
本書は「初学題額集」(全4巻)の注釈書である。初学題額集は良山の著書で、良天・良栄と相伝した秘書である。
奥書に「右此十六巻不憚愚為文庫塵拂 奉納 大澤山圓通寺 住関上人住持内 袋中(花押) 本末都廿三帖也 元和九年癸亥夏日伝爾従南都贈之」とあるように、元和9年(1623)奈良から円通寺へ大沢文庫の書籍として奉納されたものである。全16冊のうち第3巻が欠本となっているので15冊しか現存しない。
【 県指定重要文化財 】
・昭和52年2月15日指定、室町時代/書籍
本書上巻は「浄土相傅」として法然上人より良堯にいたる血脈を記し、応永18年(1411)良栄から良堯に左手と右手の朱印を押して授けたのをはじめに、天正11年(1583)良興より良賢に授けたものまで11通である。中巻は元禄9年(1696)良安が序文を記し、文政4年(1821)良範にいたるまで25通である。下巻は文政11年(1828)良猛より明治14年(1881)良頓にいたる11通の血脈を収めている。いずれも法然上人から授けられた住持までの血脈を記し、年月日と授けた住持の署名・花押、両手の朱印を押している。またこれら3巻は、元禄9年(1696)寄進された凾に納められている。
【 県指定重要文化財 】
・昭和52年2月15日指定、室町時代/書籍
蔵人の右中弁中御門宣教が円通寺第十代住持良迦上人あてに、円通寺を勅願所(天皇の命を受け、国家安全などを祈願する寺院のこと)とする正親町天皇の綸旨の内容が書かれている。綸旨は宮中の庶務を掌る蔵人が天皇の仰せを奉じて出す文書であり、料紙は薄墨紙(宿紙ともいう)を用いるので、これを綸旨紙ともいう。当時の円通寺の地位の高さを物語る貴重な資料である。封紙上書に「圓通寺住持良迦上人御房 右中辨宣教」とある。本書には「當寺被補 勅願所候訖 宜奉祈國家安全寶祚長久者 天氣如此 仍執達如件 天正二年六月廿六日 右中辨(花押)圓通寺良迦上人御房」とある。
【 県指定重要文化財 】
・昭和52年2月15日指定 室町時代/彫刻
この像は、元禄8年(1695)に作られた寄木造、玉眼、彩色の像で、像高は96㎝。大沢山円通寺開山の祖良栄上人の像として伝えられていて、美しい金襴の袈裟をまとい、結跏跌坐している。「大沢山円通寺開山御影 元禄八年五月三日開眼供養 願主 二十三世良諦 佛師益子村 小堀長勝」の墨書がある。
【 県指定重要文化財 】
・昭和52年2月15日指定、江戸時代/書籍
1巻目(写真上)は、浄土宗の系図を鎮西派名越流を中心に編述したもので、表書きに「浄土惣系圖 重箱入也」とあり、奥書には「時元禄十一寅年七月晦日 良因拝写」とある。冒頭に印度、中国、日本の三国の祖師たちの教義を列記してある。源空上人(法然上人)のそれはやや詳しい。次に法然門下の上人たちを列挙してある。そしてその後に聖光上人の鎮西派を筆頭にして系図が記載されている。三祖良忠門下では礼阿がやや詳しく6人の弟子をあげ、次に道光は3人の弟子をあげている。寂恵、慈心、聖真に至ってはわずかに当人の名前だけである。それに反して良弁の門流は良慶、良山、良天と実に詳細にわたって記してあり、特に良栄の門流が最も詳細である。鎮西派の後に善恵上人、隆寛上人、成覚上人、法蓮上人、正信上人の順にそれぞれの系図が記載されている。そして最後に踊念佛の門流と法然上人の在家弟子の系譜が付記されている。この系図は、円通寺の学僧によって編述されたものを元禄11年(1698)に良因が写したものである。もう1巻(写真下)も浄土宗の系図ではあるが、内容は1巻目とは多少異なる。表書きに「浄土惣系圖 圓通寺不出 主良住」とあり奥書には「永正三年丙寅三月九日 融舜示之(花押)―浄土宗伝方空仰性秀」とある。寺伝によれば、この巻は江戸初期に良定が京都で入手し円通寺に寄進したものという。
【県指定重要文化財】
・昭和33年8月29日指定 古墳
円通寺一切経塔の南西約50mに位置し、小貝川の東岸にあたり、八溝山地の一部をなす鶏足山塊の西側に立地する。小貝川の沖積地との比高差は約40mあり、樹木がなければ見晴らしのよい環境にある。
昭和33年(1958)に県の史跡に指定された際には前方後円墳と考えられたが、その後の『栃木県史』には前方後方墳との記載がある。周溝や葺石、埴輪などは認められない。後方部と前方部の高さが同じであることや墳丘全体が平たく低く構えているところから、古墳時代後期の築造と思われるが、中期という説もある。