民話|所化橋の悲話

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出典:益子語り部の会編集「益子の民話第二集」より

益子町の大沢には、浄土宗名越派の総本山である円通寺というお寺があり、円通寺では、その昔、
足利学校や金沢文庫と並んで日本3大文庫に数えられた「大沢文庫」という学問所がありました。

当時の大沢文庫の敷地は、境内(お寺の敷地の内側)は8万坪(東京ドーム約5.6個分)で、
外苑(お寺の周りの山林や田畑などの外側)は32万坪(東京ドーム約22.4個分)あり、
合わせて40万坪(東京ドーム約28個分、ディズニーランド約2.6個分)もあったと言われており、
一番栄えた江戸時代の中頃には、全国から1000人以上の学生が集まってきては、各藩(領地)
ごとに分けられ、38つの学寮に寝泊まりしながら、学問に励んでいました。

そこで、大沢文庫で学んでいる学生が村に行くために、大羽川に架けられたのが、
所化橋でした。

所化橋は仏教の言葉で「一般の人」という意味があり、近くには偉いお坊様や大名、位の高い
人しか渡ることのできない「能化橋」という橋もあったそうです。

その所化橋には大沢文庫で学んでいる学生と村娘の悲しい恋が伝説となって語り継がれています。


ある日、村に出た良無という学生が村の娘に惚れてしまいました。

初心で真面目な良無は、すぐに恋に溺れてしまい、お寺の勉強の間をぬっては、寮を抜け出して
大羽川のほとりで、娘と何度も会ってはお互いの仲を深めあっていました。

ところが、若い二人なのでやがて深い仲となってしまいました。

そんなある日、娘からお腹に赤ちゃんを身ごもったことを打ち明けられた良無は、誰にも相談する
ことができず一人で悩んでいました。

毎日娘のことを考えては、勉強にも身が入らず、ついに寮長に相談することにしました。

すると、寮長に「お前は何のためにここに来ているのだ。娘のために道を間違えてはいけない」と
厳しく諭されました。

それ以来、良無は少しでも娘のことを忘れようとして、寮長の言葉通り勉強に励んで山門から一歩も
出ませんでした。

そうとも知らない娘は、毎日毎日夜になると、所化橋のそばに行っては、良無を待っていました。

しかし、待っても待っても良無が現れないので、半年ほど経った頃、娘は待ち疲れてしまい、
大羽川に身を投げて死んでしまいました。

後になってそのことを知った良無は、ますます勉強に精進して、やがて藩学(江戸時代の学校)で
出世をし、大沢文庫の学頭や総本山円通寺の第18世の御前様を勤めるほどの高僧となりました。


この所化橋は土地改良のため、その後を残しておらず、かつての橋のたもとにこの悲しい話を
伝える碑が残っているだけとなっています。

おしまい